身体的拡張性
昔は「道具は体の一部だ」みたいな感じなことを言われながら野球をやっていた気がするけど
今になってその意味が深く理解できてる気がする
人間の身体
=ハード
その上に
「無意識」
が存在して、その上に
「意識」
が存在しているんだと、最近メディアの動画を見た時にふと想起できた
意識はコードの一種
無意識は深い場所の処理&出力装置
そして全て身体というハードの上で動かしているだけにすぎない
現実的なホモサピエンスの進化は身体的拡張性に委ねられるなーと
結局は不完全さが人間であり、情動的な判断で物事を決めてるから人間なのだと
だからこそ拡張性を手に入れた新人類は圧倒的に強いし
ゲノムに支配されてる限りホモサピエンスの次なる進化はないのかなとも
意識こそ寄生しているだけの不完全な邪魔者、だからこそ人間性があって面白くもある
訪問ってのは間近に死生観を感じるから、本当におもしろい
早いうちから死を考えることこそ自分の生を考えるキッカケになるから積極的に死ぬことを考えたい
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どこか違うぞ
なんか日本人っていろんな本を読んでても明らかに死生観が歪んでるとしか思えないんだけど何なんだろう(前提として人は死ぬ)
最近訪問をやっていながら、いや、これ100年時代とか言ってたらハードの部分でもソフトの部分でも日本はオワコン・オブ・オワコンだぞ。なんて思った。
ともかく国民全員を3割負担にするべきだと思うし、金のない老人は死を選べるべきであるとも思うし、守られすぎて死を遠ざけすぎだとも思う
嫁氏にこんなこと言ったら、じゃあみんな自分の親は自分で世話すりゃ良いじゃないか、と
いや、それじゃ金回りが余計悪くなってサービスとして成り立たなくなるし医療介護業界の発展もしなくなる
単純に自己負担割合を上げれば良いだけの話なんだよなーと、VNは自分の親は自分が見るべき論みたなのがあるから、そうなのだと思う。だから医療介護保険制度やそれに伴ったサービスの発展が未だないのだと思うんだけどね
良し悪しはあるけれど、ともかく日本は現状金もないしオワコンなんだからとりあえず自己負担割合増やして、生を選ぶことには何が伴うかを誰しも考えないと
なんか色々と違うだろそれ、と思う事が最近重なったので死生観についてはもっと学ばないといけないなー。
こちらの話で言えば、自己負担割合が増えた時にこの職種は更に洗練されてくると思ったり思わなかったり
それで良い、その加速度がこの訪問界隈には足りないから
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100年も生きる必要性
人間って動物なんだけど、それを忘れさせる文明社会だなぁと思ったり思わなかったり
動物は止まったら死ぬ。人間も止まったら死ぬ。社会的にも身体的にも
ジェンダー論とか不平等とか、どこまで人間は虚構を作っては金儲けの道具にしてるのかなぁなんて
たかだか自分の人生くらい、テキトーに生きてやりたい事やって、感謝されたり喧嘩したり、もっと自分を生きていいと思うのだけど
なんか色々複雑にして楽しんでる人たちの多さ
訪問のために伺っては涙を流しながら情けない情けないと介護サービスを受けている人たちを見て
個人の人生を他人が生きていて欲しいというエゴで個人の死にたい欲を邪魔している気がしてならない
死ぬ権利くらいあっても良いよねー、訪問サービスやってるけど本心は死にたいなら死んだ方が良いというタナカの思想は絶対に曲がらない。
生きる権利があるなら死ぬ権利だって肯定されて良いはずなんだけど
動物は最後の場所は自分で選べるはずなんだけど、人間とは複雑なものですな
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鬱と痛み
非常に困ったことに、鬱の症状が強い患者さんを担当した事がなかったタナカは己の技術不足に悩んでる。
中だけでなく外もボロボロなんだけど
PSDならまだしも、既往以前の話になってくると余計に混乱してくる
報酬系の低下、、そもそもPSDじゃねえから片麻痺が根本原因じゃねえし、かといって身体的ストレスが確実に悪化させているのも明確だし
あーあぁーこれどこから手を付けていけば良いんだろうかなぁー。って
ともかく共感、共感、共感、、、と
お前は共感しかできないホモサピエンスか、と言われてしまいそう
共感ひとつでも、どの文脈から共感するかによって敵なのか味方なのか、論になってしまうのがちょーっと厄介
一先ず身体の痛みを取らなければ
「鬱の症状が身体中に出てくることをけっこうな人が理解してくれない」
これ。
そして他人の痛みを自分の尺度で計ってはいけない。
「気のせいだよ・それくらいの痛みは我慢できるさ・まぁ大丈夫だよ」
そういう人ってたまにいる。違うんだよなー
逃げたくても逃げられない人とか、変えたくても変えられない人
ヤングケアラー問題もそうだけど、そういう人ほど手を差し伸べてあげる懐の深い人間でいたいし
せめて、痛みは分からなくても一緒に悩めるセラピストでありたいと思う。
なんだよ技術的な問題から逃げてるだけじゃねーか
人は孤独では生きていけないのです。話はそこから
行動心理とか運動療法とか、各種技術は二の次
第一の処方は孤独ではないという安心感なのではと、思ったりします
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心が浮いている状態
何だかクリティカルな答えが出なくてすごくウズウズしてる
例えば、、成長期に身体の一部が麻痺になったとして
パーソナリティが肯定されていく過程で蓋をされたこの場合、どうすれば大人になったときの「心が浮いている状態」を解消できるのかと
身体以前にとんでもない課題だな、とものすごく痛感してる
パラノイア的な側面もあったり、極度の肯定感の無さや、親子関係の極度の依存
複合的に問題が山積みすぎてどこから手をつければこれは長期的な目標の達成に繋がるんだろうな、とシンプルに見えるようでシンプルじゃないようでシンプルなのかもしれないと帰結する
そうさ、俺は人をみているのではない、病人をみているのだ、病という化けの皮をかぶった人をみているんだ、そうさそうさ
完全に思考停止
心が浮いている人と一緒にいる時は
「自分も心を浮かす」か「心をどこかにぶん投げてそこには田中の肉塊しか存在しない」状態を作るか、この二択になってくる
前者は自己犠牲の精神で自分も紫色になりながら完全に患者に依存する
最終的に裏切られても精神がボロボロにならないタングステン並みの硬さが必要
そして後者はもう完全に心そっちのけで相手を人とみなさない方法
まるで親身に聞いているようで身体のこと以外聞いたことは右から左の中規模病院の内科医みたいな存在になるという素晴らしい戦略(内科医の先生が悪いとは言っていない)
そのうち田中の顔が紫色になっていたらそういうことなんだなぁと思う。
まぁともかくそういう心理学的考察のできる文献をひたすらに読むのです〜
もちろん、フィジカルが思考に直結してるとも考えるので、外側の問題もしっかりと向き合わないといけませぬが
↓患者さんちの猫。大体いつも寝てる
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治るか治らないか問題
患者さんを整形に連れて行ってはヤク漬けにするという週末を過ごしてる
その時の最適解を選ぶのがプロだし、別に痛み止めが悪だとかそういうことではないんだけど。
医療サービスを受ける本人は「治るのか、治らないのか」をベースに考えていて、そんでもって医療従事者の「治る」とはまた違う観点
大体の患者さんの「治る」が表すのは「治癒する」ではなくて「痛みが取れて”普通”の生活が送れる」こと
この質問を医療従事者
ドクター、PT、薬剤師、看護師にぶつけた時にどういう反応をするか付添で同行する俺は楽しみにしている節がある
流すのが上手い人もいれば
「あ、無理ですよここはこういう理由で治りません」なんてバカ正直な人もいる
逆に「治ります」とか言う人もまれに居たりする、え、大丈夫か、と思う
例えばTh12とLB2に圧迫骨折の既往があって、極度の円背で、両足大腿の頸部骨折の既往で、90を超えていて、と、まぁ、、、腰どうにかして、と。これ治して、と
プロなら誰しもが治るなんて思わない。というか器質的な問題を治癒できるなんて思える人がいるならそれは単なるバカだとしか思わない
が、ここでの治るを患者さん目線で考えれば「治る」なんてのは容易なわけで
補助具や増やして環境面の負荷を減らす、単位増やす、痛み止め飲む、モミモミする、精神面でのサポートをする云々と、いくらでも「治る」かもしれない
これを一緒くたにして「治らない」はまぁナンセンスだよなーと。
結局何が言いたいかというと
それを踏まえた上でも、毎日これ無理やんな状況に出くわすのが訪問
本気で「治す」気概がないと、患者さんの社会的離脱は防げないのです。基本こそ大事。常に勉強
毎日「治るかなぁ」と悲しい顔で言われても「大丈夫です、田中がついてます」なんて真顔で半ば虚言を吐きながらも底なしの生気を高齢者に分けて明日も頑張るのです
嫁氏。最近ヨガにはまってるっぽいです。
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社会的離脱を防ぐために
仕事柄テレビの音声や映像が目に耳に入ってくることが多いんだけど
いっっっっつまでもコロナの事をこねくり回して、ここで仕事している人たちは脳みそ狂って死なないのかと心配になる
ところで
「高齢者は老害化する前に集団自決、
集団切腹みたいな事をすればいい」
みたいなものが目に入ってきた。超クールジャパン
これは上に立ってる人たちって意味合いだと思うけど
今日も朝イチで訪問すませ、ソッコー患者さんの診察に付き合って
(そもそも俺が行くのがオカシイんだ家族が行けやナスめ)
なんだか第二の地元みたいになってる。俺別に定住するつもりないんだけど
「社会的年齢」
社会の中で生きていける年齢。コミュニティや社会的役割云々
最終的に老人ホームにぶち込むってことは、結局は社会的年齢、役割が、、、
老人ホームにしかコミュニティのない人ももちろん幸せかもしれないけど、結局はそこしか行くところがない=それ以外の社会的繋がりがない
親の介護を子どもがしているってすごいことだな、と、第三者的に思ったり思わなかったり
介護にリソース取られたくない若者や働き盛り、物理的に不可能な人たちは別として
やっぱり親御さんは幸せだなと、見てて思う。
人間が年老いたら死ぬか介護されるか二択だけど、子どもに介護されている親御さんは生きてる価値を簡単に見いだせる。明日はあの世だと言ってるわりにはけっこう明るい顔してる
年齢層の幅広い、けど小さな村コミュニティに自分が入っていられるのかで将来の社会的離脱は防げると思う。それだけで老後も幸福感に溢れているのでは
同世代の人としかつるんでいないのは、多分だめなんだろうな、と訪問をやっていて思った
田中はどんどーん、人のいない方へいない方へ。。。。
蕎麦うまかったな。
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地方の農地問題
👵田中先生、だったら家買えば?
👨いや、田中は山梨に住む度胸はないです( ´∀` )💦
太陽光パネルが起こす環境負荷が一時期話題になった
農地の転用はわりと手続きやハードル高くが面倒くさくて、だったら開発業者に投資案件として売りさばくか不動産業者に雀の涙で売るか
それがたまにショッピングモールができたり国や県の土地として埋め立てになるなら運が良い方
人的リソースが少なくなった場所で
例えば自分が売れない畑をいくつも持っていたとして、固定資産税としては安かろうが手入れの必要があって
自分の身体が動かなくなったときに、じゃあここの土地に太陽光パネル建てるからいくらで売ってください。
ぜってぇ売るよな、うん、売らない方がおかしいだろ
それでも太陽光パネルを絶対的な害悪と言えるのかどうか
ただこの太陽光パネルをさばく業者にも難癖あって
転売目的で入手した土地に太陽光パネルをつけさせる。みたいなスキームが存在してるから
そもそも太陽光発電を利用するときの分割案件のグレーゾーンをすり抜けることができたりする。いやぁ考えたやつ頭いいよ
地元住民が反対してても、熱海くらいの問題を起こさない限り取りざたされないし
何より
それ以上の農地活用法がない限り、景観だ環境負荷だなんだと言っても
この太陽光パネルみたいな事例はどんどん増えてくると思う。
悪いのかどうなのかは俺も分からん地元住民じゃないし。まぁ確かに車運転しててピカピカしてたら目障りだけど
人がいなくなればなるほど、日本的な何かは消えていくものも多いのだろうな。と
新反動主義的に、加速主義的に、行きつくところまで行って、日本ぶっ壊れてしまえば良いとも思ってるからどうでも良いのだけど。結果的に日本から逃げれば良いだけだし
👨それでもまぁ山梨は好きですよ
でも家を買うほどではない。。。
👵じゃあ古民家でも買えば?200万くらいで売ってるよ
👨あ、、結局それも家を買うって事ですよね(笑)定住するつもりないんで、、、
👵いやいや、それで商売でもすれば良いのよ、今だったらー、なんだっけあれ、都内から来る人達のあれ
👨わーケーションですか、いや無理ですよ良い温泉も宿もないし
👵先生は本当に山梨が好きじゃないんじゃないのーーー
こんな会話もできる高齢者がいるのはすごい事、まだ山梨はイケイケだと思う
訪問・人生100年時代を生き抜くとは
今週も墓地墓地詰まってきた
詰まるのはえー
嫁氏と会話してて面白いなと思ったことがあって
例えば今日の自分の進歩を視覚化するために試験を受けようとして
合格ラインがその学問や知識に対する自分の進歩だとするなら
嫁氏の場合、ある一定のラインに到達するかしないかは別として、昨日の自分や去年の自分よりも着実に「出来ている」という感覚が大事なのだと
これを1時間もスタバで嫁氏と闘論してたものだから、周りの人達は何だあの中国人たちは、みたいな感じだったと思う。
考えてみれば俺のようなタスク人間は0か100かみたいな事じゃないと満足しないのかとも思うし
かと言って嫁氏みたいな日々の進歩を自分の中で消化しているタイプはどれくらい進歩しているかが捉えづらい
別にどっちが良いという事でもなくて多分、考え方の違いだから突っ込まなくていいんだろうなと思う
点数化されて進歩しているかしていないかを決めることが正論ではないし、自分の中で進捗を計っていくことが傲りというわけでもない
それで良いと思う
ニュースアプリのメルマガに
人生100年時代とは「身体的年齢・社会的年齢・主観的年齢」が大事
みたいな事が書いてあった。有名な学者のアンチテーゼかなにか
うーむ、うんうん
自分としては誰一人取り残さない社会ほど豊かなものはないと思うし「社会的年齢」
身体的な年齢がいくつになっても挑戦していいと思うし「身体的年齢」
自分の限界は決めなくて良いと思う「主観的年齢」
ただ表裏一体で
一線で活躍できない人間が一線に立つ必要はないし、身体的年齢はもちろん20代には劣る。60代以降の有権者が主体の社会では若者の意見がマイノリティになるリスクも考慮して若者を抑え込まない、、、ごにゃごにゃごにゃ、、、と
2人の患者さん
・独居で家族とは喧嘩、家も別々で頼るところは介護サービス
こちらADLは良好、身体的自由度は高い
・ひ孫が6人、頼れる子供も近くに住んでいて旦那さんと同居
こちらは自立度が低く、補助具があってようやく生活が送れている身体的自由度の低い状況
田中はバカなのでこんな質問をぶつけてみる
(もちろん患者とのラポールが完全に形成されている前提)
「何でそんなに生きたいんですか?」
前者は「分からない」
後者は「生きていたい理由がそこにあるから」
生きているようで死んでいる
死んでいるようで生きている
何かに依存できている事こそ人間が幸せになっている一つの要因なのだなと
逆説的に医療福祉サービスを提供する側として
社会的離脱を防ぐ、精神的孤独感や身体的自由度の低下を防ぐ事こそ
近い場所にいるケアワーカーやソーシャルワーカーに出来る事なんだと思う
もちろんそれは時代によっても変化していったりするかもしれない
これからはVRと医用工学の発展で実際にリアルの価値がどんどん少なくなっていくと思う
それこそ20-30年後には苦痛に苛まれてこの世を去る人がいなくなるかもしれない。(合法ドラッグ・BI・VR・医用工学・感覚応用の発展)云々と
そうなることが幸せなのか、幸せじゃないのかはイマイチよく分からない
でもこんな事もスティーブンホーキング博士が言ってた気がする
「愛する人たちがいないなら、宇宙は大したところじゃない」
結局、生きている理由てのはそういう事なんだろうな
愛の形はなんでもよいのです。
対象は人でも金融資産でもキノコでもトカゲでも犬でも猫でも玉ねぎでもけん玉でも
訪問をやって1年そこらのセラピストが思うのでした。