訪問・人生100年時代を生き抜くとは
今週も墓地墓地詰まってきた
詰まるのはえー
嫁氏と会話してて面白いなと思ったことがあって
例えば今日の自分の進歩を視覚化するために試験を受けようとして
合格ラインがその学問や知識に対する自分の進歩だとするなら
嫁氏の場合、ある一定のラインに到達するかしないかは別として、昨日の自分や去年の自分よりも着実に「出来ている」という感覚が大事なのだと
これを1時間もスタバで嫁氏と闘論してたものだから、周りの人達は何だあの中国人たちは、みたいな感じだったと思う。
考えてみれば俺のようなタスク人間は0か100かみたいな事じゃないと満足しないのかとも思うし
かと言って嫁氏みたいな日々の進歩を自分の中で消化しているタイプはどれくらい進歩しているかが捉えづらい
別にどっちが良いという事でもなくて多分、考え方の違いだから突っ込まなくていいんだろうなと思う
点数化されて進歩しているかしていないかを決めることが正論ではないし、自分の中で進捗を計っていくことが傲りというわけでもない
それで良いと思う
ニュースアプリのメルマガに
人生100年時代とは「身体的年齢・社会的年齢・主観的年齢」が大事
みたいな事が書いてあった。有名な学者のアンチテーゼかなにか
うーむ、うんうん
自分としては誰一人取り残さない社会ほど豊かなものはないと思うし「社会的年齢」
身体的な年齢がいくつになっても挑戦していいと思うし「身体的年齢」
自分の限界は決めなくて良いと思う「主観的年齢」
ただ表裏一体で
一線で活躍できない人間が一線に立つ必要はないし、身体的年齢はもちろん20代には劣る。60代以降の有権者が主体の社会では若者の意見がマイノリティになるリスクも考慮して若者を抑え込まない、、、ごにゃごにゃごにゃ、、、と
2人の患者さん
・独居で家族とは喧嘩、家も別々で頼るところは介護サービス
こちらADLは良好、身体的自由度は高い
・ひ孫が6人、頼れる子供も近くに住んでいて旦那さんと同居
こちらは自立度が低く、補助具があってようやく生活が送れている身体的自由度の低い状況
田中はバカなのでこんな質問をぶつけてみる
(もちろん患者とのラポールが完全に形成されている前提)
「何でそんなに生きたいんですか?」
前者は「分からない」
後者は「生きていたい理由がそこにあるから」
生きているようで死んでいる
死んでいるようで生きている
何かに依存できている事こそ人間が幸せになっている一つの要因なのだなと
逆説的に医療福祉サービスを提供する側として
社会的離脱を防ぐ、精神的孤独感や身体的自由度の低下を防ぐ事こそ
近い場所にいるケアワーカーやソーシャルワーカーに出来る事なんだと思う
もちろんそれは時代によっても変化していったりするかもしれない
これからはVRと医用工学の発展で実際にリアルの価値がどんどん少なくなっていくと思う
それこそ20-30年後には苦痛に苛まれてこの世を去る人がいなくなるかもしれない。(合法ドラッグ・BI・VR・医用工学・感覚応用の発展)云々と
そうなることが幸せなのか、幸せじゃないのかはイマイチよく分からない
でもこんな事もスティーブンホーキング博士が言ってた気がする
「愛する人たちがいないなら、宇宙は大したところじゃない」
結局、生きている理由てのはそういう事なんだろうな
愛の形はなんでもよいのです。
対象は人でも金融資産でもキノコでもトカゲでも犬でも猫でも玉ねぎでもけん玉でも
訪問をやって1年そこらのセラピストが思うのでした。