普通としての境界線
某Twitterアカウント(自社の)
やってるんだけど、山梨、地方を盛り上げようー!!
って人たちをよく見る
別に盛り上げなくて良いじゃん。って感じもする
ポテンシャルがあるのは分かるけど
変わらない境界線の中で変わらないように生きる事も幸せじゃんって田中は思う
それを変えようとするから苦痛が生まれるし、変える事すら無力な事だってある
何だっけ、地域おこし協力隊?だって、まさにオ○ニーみたいなものでしょう
本気で変えようと思うなら、一生をかけるべき。任期がある事すら理解不能
変わらない人たちは幸せで、大概はその人たちの耳に届かない
南アルプスで沢山の人たちと話をしているとこういう観点も生まれる
どうしたら競争力が生まれる?生まれるはずないよ、幸せだから
(懐かしい写真や)
労働
労働なんて部活動とほぼ変わらない、監督やコーチ、先輩とか後輩だってそのまんまじゃん。と
選べるのはその縦の中で生きていくか、自分が新しいものを作って一発逆転を狙うかしかない
でもこのご時世、大体は逆転不可能になってる。もう27になってみると、その資本主義社会には絶望したりする
だからこそ、山梨で自分の能力や技術を還元したいと思うし
誰かの役に立ってる事こそ人生ゲームの醍醐味だと思ってる。
しょせん、人生なんてゲーム
最高値の、選べる人生の中で、常に経験値を上げて、常に自分がワクワクする楽しい場所にいたい
と思うのがゲーム
今のワクワクにかけるか、将来の可能性にかけるか、だから難しい
まぁそれもきっと誰かの何かの動きに連動された歯車なのだろうけど
それでも自分に正直に、楽しく生きるには常に「普通」である事のギリギリの境界線を選ぶべきなんだろうなぁと
今日は色々と考えた一日でした。22歳の自分だったらきっと即決なのだろうなぁ
ブログランキング参加してます。
↓↓良かったら下の画像をクリックお願いします(*´ω`*) ↓↓